赤津焼工業協同組合  
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赤津焼会館ご案内 伝統工芸士ご紹介 伝統工芸品「赤津焼」
 
 
伝統的工芸品「赤津焼」  

■赤津焼(あかづやき)


猿投山麓の静かな風土に育まれて、一千年を超える赤津焼は、日本六古窯の一つに数えられ、良質の陶土、赤津地域のみに産出する原料にめぐまれて、すぐれた陶工が生まれ、育ち、その技術や、技法が今日まで受けつがれ、美術工芸品、茶華道用具、一般食卓用品に、脈々と息づいています。
伝統工芸品に指定された七色の釉薬は、平安時代の灰釉に始まり、へら彫り、印花による華やかな文様によって花開き、鎌倉期、鉄釉、古瀬戸釉の出現により、貼付け、浮彫り等の装飾技法に一段とみがきがかかり、世にいう古瀬戸黄金時代となりました。
桃山期茶華道の発達に伴い、黄瀬戸、志野、織部の各釉が出現し、その優雅な美しさは、茶陶を中心として各焼物に及び、今日も変らず赤津焼の代表的なうわぐすりとして多く用いられています。
江戸時代の初期尾張徳川家による尾州御庭焼によって御深井釉が用いられ、玄人好みのうわぐすりが一段と冴えて、見事なろくろ技術や、たたら技術によって他に類をみない多彩さを誇り、十二種もの装飾を駆使して今日も尚、赤津焼に生かして、その伝統を守り制作されています。
後継者の育成も活発化し、「土ねり三年、ろくろ十年」といわれる伝統的技術の継承に二世らが情熱を燃やしており、赤津焼は今後も暮らしの伴侶として生き続けることでしょう。


■赤津焼の釉薬(うわぐすり)


かいゆう
灰釉
○平安時代前期、平安貴族の食器を焼く窟窯で焼成され初期のものは器物の片側だけに灰の溶釉が見られる、自然釉
 
てつゆう
鉄釉
○鎌倉時代初期より水打粘土、鬼板粘土を使用した鉄釉が焼成される。茶入れを始めとする茶道具が生産され、世にゆう古瀬戸黄金時代といわれる。貼花、印花を始め各種の装飾技法が発達した。

おりべゆう
織部釉
○桃山時代から江戸時代初期、茶道具に使用され、当時は志野、鳴海、瀬戸、(瀬戸黒、黒織部、織部黒)絵之手も含まれていた。現在は黒織部、青織部、赤織部、絵織部を含めて織部と呼び、一般的には、青織部のみを織部と称している。 黒織部は鉄釉に含めている。赤織部は赤い地土に白土にて文様を画き、鉄絵をあしらう。 絵織部は織部文様のみをあしらい、灰白釉で焼成したもの。織部は美濃で発した、いや瀬戸だのとの論争があるが、織田信長の時代戦乱を逃れて、瀬戸より美濃へ大量の工人が流出し、久尻窯を開いたといわれる加藤景光は天正2年赤津で修行し、天正11年(1583)美濃へ戻り久尻窯を開くと伝えられている。このように瀬戸も美濃もほぼ同時代に織部、志野、黄瀬戸等を焼き始めたものと思われる。
 
きぜとゆう
黄瀬戸釉
○鉄釉の一種で鉄分の含有率は10%程度で美しい黄色に発色する。桃山時代茶道具として使用されるも皿、鉢等にも多く使われている。1501年赤津白坂滝下窯で花弁緑、七宝平皿が焼かれている。

しのゆう
志野釉
○桃山時代、長石のみを釉薬として使用したもので、赤津猿投山の東側の広見の地は長石を掘り出した穴が有り、又西側、赤津にも現在も堀り穴が残って居ります。美濃は鉄分の多い陶土長石を使用しているため、赤色の発色が見られるため通称赤志野と呼ばれて居り、赤津の長石は鉄分の含有率が少なく白色に発色するため、通称白志野と呼ばれている。
 
おふけゆう
御深釉
○尾張徳川家が名古屋城御深丸の庭に窯を築いて尾州御庭焼と称して焼き物の焼成を始め、1638年中国人陳元贇(チン・ゲン・ピン)を江戸より連れて来て、この御用窯を指導させる。この中国人によって安南呉須絵のものが始めて指導される。この絵付けしたもので還元焼成したものを御深井と称し、酸化焼成したものを安南、もしくは安南手と称している釉薬そのものは灰釉の一種で出現は平安前期である。

こぜとゆう
古瀬戸釉
○鎌倉時代初期より焼成され、鉄釉の一種で黒色の中に茶褐色の部分がある釉薬で、茶入れを始め、茶道具に多く使用されてきた。特に古瀬戸の茶入れは有名。
 
こぜとゆう

(昭和52年3月30日)


以上各種名称(その他に各名称多数あり)を整理して
七種類と釉薬名に統合し、
伝統工芸品として指定される。
 
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